多文化主義になった背景
オーストラリアは人口構成の多様化と、伝統文化・言語への深い愛着から、文化・言語の維持を望む非英語系移住者の拡大、そして、自国のアジア太平洋国家化によって人種差別的な白豪主義を廃止したのです。
そして、多様な言語の存在と維持を認める「多文化主義」が1973年に先駆的に唱えられ、以後1980年代になると普及しはじめました。
そして、名実ともに多文化社会オーストラリアとなったのです。
現在では、多文化教育・多言語教育・多文化放送が実施されています。
また、病院、裁判所、警察、行政サービスなどの通訳サービスや多言語出版物の配付は、当然のこととなっています。
移民・難民のエスニック・コミュニティーの運営補助や、文化・言語維持活動への補助なども行われています。
現在、主要な大学には多文化問題研究センターが設置され、研究補助も政府によって行われています。
今日、白豪主義オーストラリアのイメージは現状に全くそぐわぬものとなっています。
こうした結果、1995年5月キーティング前連邦首相は、オーストラリアの自律意識の高まりとアジア太平洋国家化に加えて、社会の多文化社会・多民族国家化への動きを強く印象づけるために英国との歴史的関係を象徴する立憲君主制を廃しました。
大統領を頂点に抱く共和制国家化への移行に、必要な憲法改正提案を議会で行ったのです。